Journal
2020.05.18

Vol.1
岸真理子・モリア

クートラスの後半生に寄り添い、遺された作品群を所有、管理することとなった岸真理子・モリアさん。岸さんはクートラスの劇的な生涯、そして共にあった日々を『クートラスの思い出』(リトルモア)として出版されています。またフランスでの回顧展、日本での展覧会の作品選定にも携わっておられます。

― 手のひらに乗るほどの大きさのカルトは、原寸大で作品を収録した『僕の夜』や、ギャラリーでの展示を通して、深い共感をもって迎えられていますね。

岸真理子・モリア(以下 、岸):クートラスが画面を小さくしたのは,垂直に深みにおりて行く世界と時間を描くためだったと思います。手のひらの中で、ゆっくりと自分の中に想起するものを捉えたかったのでしょう。長い工程を経て一枚のカルトを仕上げています。一枚一枚の絵が自分に与えられた生命の時間の表現だとも言っています。日本では、そうしたクートラスの世界を、観念的にならず、そのまま受け止めて頂けるような気が致します。

― フランスでもパリ郊外のシャルトルで約1年間、回顧展“LE MONDE DE ROBERT COUTELAS(ロベール・クートラスの世界)”が開催されました。フランスの方々はどのような見方をされていましたか。

:クートラスがカルトの制作に専念し始めた頃に、ある有名な画廊はカルトをそのまま大きな画面にすればすぐに扱うと言ったそうですが、これは部屋の装飾品として、壁にタピスリーをかけたりするように絵画にも剝き出しの壁に色合いを添えるという役割を人々が求めるからなのかもしれません。
複数で構成されたカルトの装飾的な側面をフランス人は好むということを、シャルトルでもパリでも展覧会のおりに感じました。1枚、1枚の作品を手にとって感動していても、やはり、壁には沢山並べたいという方が多いのです。

:75年以降カルトを構成する様になり、それを自分で額装して展示し始めています。構成するとなると、それぞれのカルトの色彩やフォルム、シンボルの強弱、寒暖等のバランスに配慮をしますから、組んでいる過程の中で必要になって来るモチーフが出て来ますので、構成上、必要になったカルトを新たに制作することもしばしばでした。ですから、クートラスが構成したカルトは構成自体も彼の作品です。でも、元々、カルトは一枚一枚が作品なのです。

― このカルトの作品群をクートラスは「僕の夜“Mes Nuits”」とシンボリックで印象的な言葉で括っています。毎晩1枚ずつ仕上げたということも含めて様々な意味がこめられているのでしょうね。

:画廊に所属しないで貧乏をしていたときでもクートラスは,毎日のように風景や、人々を描くために街にでかけましたし、朝早く起きて、日のあるうちは、風景画、静物画等の制作のために立ちっぱなしで仕事をしていました。「僕の学校は、街と、それから美しいものに対する愛」と言っているほど街が大好きでした。そして日が沈んで夜になって漸く椅子に腰掛け、いわば余暇として自分に許されたと思っていた時間帯に描き始めたのがカルトだったのです。
この昼と夜との二重生活をヴェルセル画廊を1972年に辞めるまで続けました。ですからカルトを「僕の夜」と呼ぶようになったのだと思いますし、こうした夜に自分の中の深い『闇』と向いあったので、「夜」という言葉にはいろいろな意味があるのだと思います。クートラスはカルト、グアッシュ等、67年以降の作品のことを、「僕の夜の結晶」、「凄い孤独と不安の中で仕事をし続けた数えきれないほどの夜の賜物」とも言っています。

― カルトだけの作品集『僕の夜』に続いて、エクリから2015年2月にグワッシュの作品だけを集めた『僕のご先祖さま』を刊行する予定です。

:1977年から制作を始めた一連の、人間や動物のグアッシュで描いた肖像画をクートラスが時々ふざけて「僕のご先祖さま“Mes Ancêtres”」と呼んだりしていましたので、私もそう呼び続けています。もちろん彼の実際の先祖というわけでありません。クートラスは労働者として,11歳から工場で働きましたし、父親が誰かも分りませんでしたから彼の実際のご先祖さまは謎に包まれています。

― 懐かしくユーモラスで悲しげな人々の肖像は、いつでも親密な雰囲気がかもされていて離れがたくなってしまいます。

:寂しがりで、お喋り好きのクートラスは、若い時から蚤の市や、ビストロで、人々をよく観察してデッサンしていました。電車の中で見かけた或る若い女性の額の形がルネッサンス風だからと、声をかけて付き合ったこともあったそうです。そんな風に日常の中で、カテドラルの彫刻で見た顔や、お城のポートレートギャラリーで見つけた顔と出会い、動物や鳥の目に,自分の親しい人の面影を見ることもあったりして(グアッシュの人物は鳥の目をしていることが多いです)、それが内面化されて、一連の肖像画になったのだと思います。グアッシュの制作も殆ど夜でした。また、ネズミと暮らしたことがあるぐらい、動物好きでしたから、動物たちにも自分と縁の深い存在に対する感情を重ねることがあったと思います。

:先祖、過去の人というより、自分という小さな存在をつくっている大勢の人達の肖像なのかもしれません。不幸な子供時代を送ったクートラスは自分の生きた労働者という環境に対して憎しみに近い感情もあったと思いますが、彼を救ったのは、民衆芸術の愛に溢れた作品でした。カルトやグアッシュの世界にはある意味では、自分の運命との和解のようなところがあるかもしれません。 グアッシュもフランス人は装飾的にも取れる華やかな作品を好む傾向があるかもしれません。クートラス自身の性格にも火のような激しさと、水のような静かさとがせめぎあっていました。「あの青や赤の星がきらめく花火と地べたに不発で残ってしまった爆竹」という風にも自分で言っていました。日本では、むしろ、水のようなクートラスの側面に惹かれる方が多いような気もしますが、未だ良く分かりません。
今回、初めて日本ではグアッシュの画集を出版して頂く事になりました.日本の皆様の反響を楽しみしております。

岸真理子・モリア
1977年渡仏。パリにある日本の画廊で働きながら、若い頃、現代のユトリロと評されたことのあるロベール・クートラスと出会い、晩年をともに過ごす。1985年に亡くなったクートラスの遺言により、カルト(手札大の紙片に描かれた絵画)のほか、テラコッタ、グアッシュなど、作品を所有、管理することとなった。
2011年、クートラスの生涯を綴った『クートラスの思い出』(リトルモア)を刊行。現在、ピアニストの夫とともに、パリ郊外に住んでいる。

写真:平地勲