Journal
2020.05.20

Vol.4
岡野晃子

静岡県三島近郊にあるクレマチスの丘には、広大な敷地と豊かな自然、その起伏を生かして、ベルナール・ビュフェ美術館、ヴァンジ彫刻庭園美術館、IZU PHOTO MUSEUMという三つの美術館が配されています。素晴らしいコレクションと企画展に、県外からも多くの鑑賞者が訪れています。 2016年3月にロベール・クートラスの展覧会を行ったベルナール・ビュフェ美術館の副館長、岡野晃子さんにお話を伺いました。 (2015年11月に、ロベール・クートラス展を開催したGallery SUの会場にて) カルトの作品集『僕の夜』から クートラスとの最初の出会いは、当館のミュージアムショップに置かせていただいたカルトの作品集『僕の夜』(エクリ刊)でした。小さいながらも存在感のある本で、当時クートラスはまだあまり知られていませんでしたが、来館者や作家さんたち、特に画家の方々が興味をもたれているのが印象的でした。こんなにも多くの人の心を掴む作家の作品を実際に見てみたいと思っていたとき、クートラスの本を出版されたエクリの須山さんに、ギャラリーSUさんをご紹介いただきました。ギャラリーでは、カルトだけでなく、グアッシュや油絵、指でつまめるぐらいの小さなテラコッタ作品なども拝見させていただき、中世、ときには太古を感じさせる画風と、ユーモアに溢れた、悪戯好きのクートラスのまなざしにすっかり魅了されてしまいました。 ビュフェとクートラス ベルナール・ビュフェとロベール・クートラスは2歳違い、ほぼ同時期にパリに暮らし、絵を描いていた画家同士ですが、画家のあり方としては対極にあったと言えると思います。ビュフェが第二次世界大戦後の社会を描き出した「時代の証人画家」であった一方で、クートラスはフランス文化のもっと奥深いところを見つめていたように思います。 私どものベルナール・ビュフェ美術館は、2013年に開館40周年を記念し、美術館の建物と活動内容の全面的なリニューアルをして、ビュフェだけでなく、さまざまな時代、文化に生きる画家を紹介する企画展を行うことを館の新しいミッションとしました。リニューアルオープン後の企画展を構想していくなかで、クートラスの作品や岸真理子・モリアさんとの出会いから、ビュフェとは全く異なる画家としての人生を歩んだクートラスの作品をぜひ当館で紹介したいという思いが生まれました。 岸真理子・モリアさんとの出会い 『僕の夜』のあとにリトルモアから出版された岸真理子・モリアさんの『クートラスの思い出』を読んで、真理子さんの遺作管理人としての生き方、作品と向きあう姿勢にも興味がありました。そのとき、すでに東京の松濤美術館でのクートラス展の開催が決まっていて、展覧会の準備で来日されていた真理子さんに当館へお越しいただく機会に恵まれたのです。私は公立の美術館ではなく、祖父個人の思いからつくられた美術館で仕事をしていて、ビュフェの作品をどう残していくかを絶えず考えています。そのことについて、あまり人と話す機会はないのですが、真理子さんとは一目お会いしたときから、「あなたなら分かっていただけるでしょう」と共感しあうことができ、何でも相談できる家族のような、不思議なご縁を感じました。真理子さんのように、作品の管理だけでなく、本の出版から展覧会の開催に至るまで、クートラスの作品を知ってもらうこと、人の心に届けるところまで、いつも全力で関わっていらっしゃる、そのお姿から学ぶことは多いです。 作品への愛 パリ郊外のボワルロワの真理子さんのご自宅は、まるでクートラスの美術館のようでした。クートラスの息遣いが聞こえてきそうな親密な空間で、そこは作品への愛に満ちていて、真理子さんだけでなく、ご主人のベルトランさんとお二人で大切に作品を守り、管理されていることが伝わってきました。真理子さんとお会いする少し前に、あるトークイベントで、画家の小林正人さんのお話をうかがう機会があったのですが、そのとき小林さんが「絵は物だから、いつか壊れてしまう、でもその絵を大切にしてくれる人がいたら、ちゃんと修復してもらうことができる。絵は一人の力では残っていくことができない、つまり絵画は愛なのだ」とお話しされていて、ボワルロワで真理子さんとクートラスの関係を目の当たりにして、本当にそうだなと、あらためて思いました。 また真理子さんのご自宅では、クートラスの作品だけでなく、彼が好きだったものや本なども見せていただいたのですが、そのなかでも印象に残っているのが、『木を植えた男』の著者としてよく知られているジャン・ジオノの、日本ではまだ翻訳されていない“LE DESERTEUR”(脱走兵)という本でした。民衆芸術のアール・ポピュレールの作家がイラストを描いている美しい本に、木の葉がしおりのように挟まれていて、クートラスがこの本をとても大事にしていたことが伝わってきました。この本の内容を理解したいと思い、パリ市内の古本屋を幾つか訪ねたところ、一軒目の古本屋で、偶然にも同じ装丁のものに出会うことができ、何か運命的なものを感じました。ビュフェは1950年代前半にジオノと交流があり、共同で挿画本を制作しているのですが、この一冊のジオノの本を通して、ビュフェとクートラスがつながっていくように思いました。 ビュフェ美術館のクートラス展 2016年3月より、ビュフェ美術館で開催されるクートラス展では、カルト、グアッシュ、テラコッタ、スケッチ、これまで公開されてこなかった画廊時代の油彩作品なども展示する予定です。クートラスのアトリエの空気感を感じていただけるような、さまざまな角度から、クートラスの世界に触れられるような展覧会になればと思います。 当館でクートラス展を開催できるのも、真理子さんをはじめ、クートラスの作品を大切に思い、作品集を出版したり、展覧会を開催してこられた方々のおかげです。このクートラスをめぐる輪をさらに広げ、次へつないでいけるよう、学芸員たちと力をあわせて、いつまでも記憶に残るクートラス展となるよう取り組んでいきたいと思います。 岡野晃子(おかの・こうこ) 1973年生まれ。コロンビア大学Teachers College美術教育学修士課程修了。2003年よりベルナール・ビュフェ美術館およびヴァンジ彫刻庭園美術館副館長。2009年よりIZU PHOTO MUSEUM館長。 https://www.clematis-no-oka.co.jp/ 写真:平地勲
2020.05.19

Vol.3
岸真理子・モリア
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皆川明

「クートラスの作品の後に私の人生があってよかった」 これは、クートラスの作品と生き方に強く魅せられたという皆川 明さんの言葉です。皆川さんがデザイナーを務めるファッションブランド、ミナ ペルホネン。オリジナル生地から、流行にとらわれず、じっくり時間をかけてつくりだされるミナ ペルホネンの服は「ミナを着る喜び」として世界に共感を広げ続けています。 「リレーのように手から手へ」渡されていくことを大切にするという皆川さんは、クートラスから何を渡されたのでしょうか。クートラス没後30年の節目に渋谷区立松涛美術館で開催された展覧会「夜を包む色彩」会場で行なわれた皆川明さんとクートラス作品の遺作管理人、岸真理子・モリアさんとの対談です。 皆川 明(以下 、皆川):僕がクートラスの作品を最初に見たのは麻布のGallery SUです。その出会いで深く心惹かれましたので、フランスのシャルトルで開かれた回顧展にも足を運びました。今後一生をかけてゆっくり見ていくべきものに包まれているというわくわくする気持ちが湧いてきました。どれを見てもすっと入っていく。一つの作品からの感動ではなく、全体からそういう気持ちを受け取る経験ははじめてでした。ですから、展覧会場の限られた時間でこの作家と作品を理解しようとするのは無理なことだし、したくはないと思ったのです。いっぺんに見てしまいたくない。時々一つひとつの作品に対面して、絵を感じるだけでなく、クートラスがどんなことを感じたのか、背景を勝手に想像しながら味わいたい。 今日、ここに展示されている作品を見ながら、クートラスの言葉や思いを岸さんから直接お聞きできるのは、とても有難いです。 岸真理子・モリア(以下 、岸):一生をかけて、自分の作品とつきあってくれる方がいると知ったら、クートラスはとても喜ぶでしょう。つい先日も夢に出てきて、君は僕がもう死んでいると思っているだろう、なんて言っていましたから。 皆川:僕がはじめて行った海外の国はフランスでしたが、ちょうどクートラスが亡くなった頃でしょうか。クートラスはカルトに制作年や場所を描き入れていて、僕の生まれた年もありますね。 岸:1965年からクートラスが住んで、カルトやグァッシュを描いていたヴォージラール通りは当時、ルノアールの映画「どん底」に登場したようなどうしようもない暗さを抱えた人たちが流れてきていました。犯罪と紙一重にあるような人びとに対する愛情をクートラスはすごく持っていたと思います。「戦争がなかったら、僕はとんでもない、ならず者になっただろう」と話していました。 皆川:60年代は時代を変貌させる大波が寄せてきた頃ですね。彼が過ごしたパリの時代、その移り変わりの凝縮されたものがクートラスの作品世界をつくっているという気がします。 岸:パリ的なものが消えていく象徴的な出来事がパリの胃袋と呼ばれた中央市場の再開発でした。レアールの中央市場はクートラスも若い頃、荷降ろしの仕事をしたことがあって、懐かしい場所の一つだったのでしょう。解体のために閉鎖されたとき、クートラスの仲間たちは工事現場に潜って宝探しをしたそうです。ローマ時代の物がたくさん出てきたのです。あのレアールの巨大な中央駅ができたとき、クートラスが「僕にはもうこのパリで生きられないかもしれない」と言ったのを覚えています。 皆川:僕は写真や岸さんの著書などからしか、その時代のことを想像できませんが、クートラスが残したいと願った時代の要素はたくさんのカルトのテクスチャーから感じ取れますね。 岸:時代のテクスチャーとおっしゃってくださったのは、とても的確な感想でクートラスも頷いてくれるにちがいありません。クートラスの絵は結局、時間なのです。彼が「リザーブ*」と呼んで、ずっと手元に置いてくれと言ったのは、散らばってしまうのを避けたいこともあったでしょうが、表に出す前に時間をおくことを望んでいたのだとも思います。時間を与えて欲しいと。よくワインに喩えていました。子どもが生まれたときに買っておいたワインをその子どもの結婚式であけるように熟成を待つのだと。 皆川:作品を散逸させたくないということよりも、僕はクートラスの岸さんへの想いだったのだと考えています。自分が作品そのものとしてあるわけですから、ずっと一緒にいて守っていきたい。自分を映した作品群が岸さんから離れないで欲しいということだったと思います。 岸:リザーブの存在が私を支えてくれたのは確かです。変な言い方になりますが、クートラスに肩車をされているような気持でしたね。そうやってクートラスの道を続けていく。私はアーティストではありませんから、彼とは別なやり方になりますけれど。 「僕はこれより遠くへはいけないかもしれないが、お前はここからもっと本質的なものに近づいて欲しい」と言われたことがありました。自分が生涯を通して探してきた道のようなものを誰かに引き継いでもらいたいと考えていたのでしょうか。 皆川:恋愛にはパートナーを所有したい愛と相手を守りたい愛があって、その境ははっきりしています。アートも同じで、アートを所有したいというブルジョワジーの欲望とアートそのものが世の中にあることが嬉しいという気持ちの間には大きな違いがあります。クートラスの岸さんへの想いというのは本質的に絵と共に守りたいということで、その気持をリザーブという形にしたのではないでしょうか。 皆川:今日はいくつかお尋ねしたいことがあって、一つが乳母車にのる子どもが描かれたグァッシュです。他にはない珍しい題材ですが、これについてクートラスは何か話されていましたか? 岸:クートラスの言うご先祖さまは、いわゆる自分に直接つながる父母祖父母ではありませんから、幼子もまたご先祖の一人とも見えますね。実はこの前にもう一枚、赤ん坊が生まれてくるところを描いた絵がありました。自分はどこからきて、どこにいくのかという根源的な問いがクートラスにもあったのでしょう。過去、現在、未来、すべての時間を貫いて自分をつくっているものをご先祖さまと総称していたのかもしれません。 この隣のグァッシュに描かれたネズミもクートラスにとってはご先祖さまなのです。 皆川:ネズミの家族と同居していたのでしたね。 もう一つは、肖像画の向きと視線です。クートラスの肖像画は、正面を向いているときと横を向いて視線はこちらに向けているとき、そして横向きで視線も横でこちらではないどこかを見ているときとがありますね。肖像画を見て最初に思った疑問は、この向き方による気持ちの違いは何だろうかということです。無意識なのかもしれませんが。 岸:クートラスの描いた横顔はたいてい左側を向いています。左は無意識で右が意識と言いますけれど、教会の正面扉のタンパンという彫刻もたいてい向かって左側が地獄です。 左右の明暗は道徳的な善悪という分け方より、隠されたものと現れたものと私は受け止めていますけれど。ヨーロッパは明るいものにばかり目を向けるので、クートラスは見られていない暗い方へ向かったのではないかしら。 皆川:その世界に愛おしさを感じていたのは伝わってきますね。正面を向いた肖像画からは安堵感のようなものを僕は受けます。 岸:おっしゃる通りですね。正面の肖像画は聖なるもの、生きる喜びを与えるような存在の表現なのかもしれません。 皆川:横顔で視線がこちらを向いているのは不安と葛藤に対するクートラス自身の意識。そして、どこも見ていないのには、クートラスが見ている外の世界、空想の世界の人物たちなのかな。 岸:「僕はちょっと遠くへ行き過ぎた」と言っていました。帰ってこられないかもしれないという不安感を持っていたのですけれど、帰ってくる方法を持たないで別世界に入っていってしまうのがアーティストなのでしょうね。皆川さんは絵を描かれているとき、それに近い経験はありますか? 皆川:水の中にいる感覚で、体がなくなっているように感じることはあります。そういうときは嬉しいですね。帰ってこられない状況はアーティストが味わう幸せで、孤独によって開かれる世界なのだと思います。 岸:僕の絵は一枚一枚が、僕の生きた時間なのだとクートラスは書いていました。彼の孤独が生んだ豊かな時間をこれからたくさんの方が共有してくださったらいいなと思っています。 *:クートラス本人が売ることも、散逸することも許さないとして選び分けた作品 皆川 明(みながわ・あきら) ミナ ペルホネン デザイナー。独自のストーリー性のあるスケッチや図案から、織・刺繍・プリントなど、多様な技術を用いて、国内外の産地と連携しながらテキスタイルを開発している。世界的なテキスタイルメーカーであるデンマークのkvadrat社、英国LIBERTY社をはじめ、様々なメーカーに自身のデザインを提供。近年では、家具やテーブルウェアなどのインテリアプロダクトやステーショナリーなど、ファッションの領域を超えたプロダクトデザインも発表している。 http://www.mina-perhonen.jp/ 写真:平地勲
2020.05.19

Vol.2
山内彩子

繊細な窓枠から光が降り注ぐ板張り床の小さな空間にロベール・クートラスの神秘的でユーモラス で深遠な作品が展示されている。版画の聖母子像、指先ほどのテラコッタ、引き込まれるような悲しみを湛えた目のグアッシュ、奔放なドローイング、そして星雲を想起させる組み合わせカルト。 クートラス作品を中心に現代作家の作品を扱う「Gallery SU」のオーナー、山内彩子さんにお話しを伺った。 ― 山内さんのGallery SUでは、オープン当初から定期的にクートラスの個展が開催されています。はじめてクートラスの作品に接したときのことをお聞かせください。 山内彩子(以下 、山内):15年ほど前になりますが、私は銀座にあった「ギャラリー無境(むきょう)」 にスタッフとして勤めておりました。「ギャラリー無境」で作品を発表して頂いていた画家、橋場信夫さんがパリに留学していらしたとき、 クートラスと、クートラスの全作品の継承者である岸真理子さんと親交があり、橋場さんを介して無境でクートラスの個展ができないかと打診があったのです。1985年にクートラスが亡くなったあと、真理子さんは長い間作品を管理されてきて、今後どのような形でクートラスを紹介していけばよいのか悩んでいらしたのです。無境オーナーの塚田晴可さんは、クートラスが亡くなる前の82年にギャラリー上田で開かれた個展を見ていて、ずっと心に残っていたそうで、喜んでお引き受けすることになりました。私はそのときはじめてクートラスのカルトを見たのですが、それ以来いつも心にかかっていて、ギャラリーでお預かりしたカルトを何度も出してきては眺めていました。そうしていると、どんどん作品世界に引き込まれていって、ほどなくすっかり魅了されてしまいました。 ― 岸真理子さんに会われたのはその後になるわけですか。 山:個展を開催することが決まって打ち合わせに帰国された真理子さんと、橋場さんのアトリエでお会いすることになったのですが、クートラスのファンになっていた私は、遺作を管理されている方との初対面にかなり緊張していました。 でも、はじめてお会いしたときのふんわりと温かく包まれる気持を今でもよく覚えています。「あなたがクートラスのファンになってくださったと伺っています」とおっしゃった柔らかな表情が印象的でした。フランスにいらしたらぜひお寄りくださいとお誘いくださり、その後、夏休みにパリに行って再会しました。クートラスが好きだったという教会や博物館へ連れていってくださり、また真理子さんの口から直接語られるクートラスの言葉を通して、ますます作家と作品への理解と愛情が深まっていきました。ヴォージラール通りのクートラスが亡くなるまで住んでいた部屋も、改装されてしまう前に覗くことができて、その狭さにベッドの上で描くしかなかったのがよくわかりました。 クートラスと真理子さんがパリで出会ったのは、1977年。私はその年に生まれているので、お二人の子どもですねと笑いあったりもしました。 ― 無境での個展の反響はいかがでしたか。日本ではまだ無名に近かったかと思いますが。 山:場所柄もあって、無境に普段お見えになるお客様の年齢層は比較的高かったのですが、「芸術新潮」での紹介などがあって、少しずつファンが増えてきていて、クートラス展ではご自分も作り手である若い方など幅広いお客様が見えました。無境では2003年、04年、09年と三回の個展を催しましたけれど、その度にじわじわと認知度も上がってきました。 2003年の個展のためにつくった三つ折の案内状は、開くと9枚のカルトが現れるものでした。この案内状を準備しているとき出会ったのが、「住む。」という雑誌で紹介された、建築家中村好文さんの事務所の昼食風景の記事です。掲載されていた写真の奥の方にクートラスの作品らしきものが写っていました。塚田さんが中村さんとは面識があったので、お尋ねしてみましたら、パリでクートラスに会って作家本人から購入したカルト作品だということでしたので、すぐに案内状への寄稿をお願いしたのです。 ― 2009年のクートラス展の直後の09年末、オーナーである塚田氏の逝去でギャラリー無境は閉じられることになります。整理の作業を経て、2010年にご自分のギャラリーを開くまでのことをお話しいただけますか。 山:無境で働いていたときから、夢としてはいつか自分のギャラリーを持ちたいと考えていましたけれど、急な閉廊で準備には厳しい条件が重なりました。「あなたにクートラスのことは任せるから」と真理子さんが背中を押してくださり、その言葉に支えられてオープンにこぎ着けることができました。 2009年の個展がきっかけでエクリから『ロベール・クートラス作品集 僕の夜』が出版されることが決まり、刊行とギャラリーのオープン記念展を同時に設定して先延ばしがゆるされなかったことが、逆に幸いしたのでしょう。 「人の心を深いところで安堵させる動物の巣のような気配も充満していました」 これは先にお話しした個展の案内状のために、中村好文さんがクートラスのアトリエの印象を書いて下さった文章ですが、独立して自分のギャラリーを開くにあたって、名を「SU(エスユウ)」としたのは、この「巣」に由来しています。本当に小さい場所ですが、巣をつくるように私が好きなものだけを集めて、それらがお客様の許へ巣立っていくというイメージで、名前もクートラスが決めてくれたことになりますね。 場所は麻布の古い集合住宅ですが、一目で気に入って入居希望を出しておいたのが、運よく思いのほか早く入ることが叶って住んでいたところです。私が気に入った作品の何を持ってきても、作品自体が喜んでくれる空間でしたから、その印象のままギャラリーとして使えたのだと思います。真理子さんもクートラスの作品を展示するのに相応しい部屋と気に入ってくださいましたし、お見えになるお客様もそう感じて下さるようです。 ― 山内さん所蔵のクートラス作品を、ご紹介いただきましょうか 山:組み合わせカルトは、中村好文さんの事務所にあるものと同様、クートラス自身が全体を構成したものです。ギャラリーコレクションとして無境で所有していたものを、是非にとお願いして引き継ぎました。クートラスがカルトを描きはじめた初期の作品で、一枚一枚が少し大き目です。可愛らしいものや、お茶目な感じのものもありながら、個性の強いものが組み合わさっていて、引き込まれるような迫力があります。掛けてあると、背中を向けていても意識してしまうところもあって、毎日向き合うにはエネルギーがいります。 クートラスが古いブリキ缶を切って、遊びでつくったオブジェです。真理子さんのフランスのご自宅に保管されていて、私が感激した様子をご覧になった真理子さんが「値をつけてお売りするものではないから」とプレゼントしてくださいました。 初めてこの聖母子像を見た時、私は真理子さんに抱かれているクートラスだという印象を持ちました。永遠に癒えない傷を湛えた目をした子を優しく受け止める手。 ギャラリーでは、クートラスの個展期間以外でも、事前にご連絡いただければ真理子さんからお預かりしたカルトを多数ご覧いただけます。実物をご覧いただくと、マチエールや素材そのものの感触を味わっていただけると思います。 真理子さんが、『僕の夜』のあとがきで「クートラスの遺したカルトが、彼らの胸に、ほんの小さな火でもともしてくれれば…」と書いていらっしゃいますが、私はクートラスと真理子さんから託されたともし火を、クートラスの作品を愛してくださる方々に手渡すことが、自分の使命だと思っています。 山内彩子(やまうち・あやこ) 東京麻布にあるGallery SUのオーナー。ロベール・クートラスの遺作管理人、岸真理子から委託を受け、クートラスの作品紹介を行っている。 www.gallery -su.jp 写真:平地勲
2020.05.18

Vol.1
岸真理子・モリア

クートラスの後半生に寄り添い、遺された作品群を所有、管理することとなった岸真理子・モリアさん。岸さんはクートラスの劇的な生涯、そして共にあった日々を『クートラスの思い出』(リトルモア)として出版されています。またフランスでの回顧展、日本での展覧会の作品選定にも携わっておられます。 ― 手のひらに乗るほどの大きさのカルトは、原寸大で作品を収録した『僕の夜』や、ギャラリーでの展示を通して、深い共感をもって迎えられていますね。 岸真理子・モリア(以下 、岸):クートラスが画面を小さくしたのは,垂直に深みにおりて行く世界と時間を描くためだったと思います。手のひらの中で、ゆっくりと自分の中に想起するものを捉えたかったのでしょう。長い工程を経て一枚のカルトを仕上げています。一枚一枚の絵が自分に与えられた生命の時間の表現だとも言っています。日本では、そうしたクートラスの世界を、観念的にならず、そのまま受け止めて頂けるような気が致します。 ― フランスでもパリ郊外のシャルトルで約1年間、回顧展“LE MONDE DE ROBERT COUTELAS(ロベール・クートラスの世界)”が開催されました。フランスの方々はどのような見方をされていましたか。 岸:クートラスがカルトの制作に専念し始めた頃に、ある有名な画廊はカルトをそのまま大きな画面にすればすぐに扱うと言ったそうですが、これは部屋の装飾品として、壁にタピスリーをかけたりするように絵画にも剝き出しの壁に色合いを添えるという役割を人々が求めるからなのかもしれません。 複数で構成されたカルトの装飾的な側面をフランス人は好むということを、シャルトルでもパリでも展覧会のおりに感じました。1枚、1枚の作品を手にとって感動していても、やはり、壁には沢山並べたいという方が多いのです。 岸:75年以降カルトを構成する様になり、それを自分で額装して展示し始めています。構成するとなると、それぞれのカルトの色彩やフォルム、シンボルの強弱、寒暖等のバランスに配慮をしますから、組んでいる過程の中で必要になって来るモチーフが出て来ますので、構成上、必要になったカルトを新たに制作することもしばしばでした。ですから、クートラスが構成したカルトは構成自体も彼の作品です。でも、元々、カルトは一枚一枚が作品なのです。 ― このカルトの作品群をクートラスは「僕の夜“Mes Nuits”」とシンボリックで印象的な言葉で括っています。毎晩1枚ずつ仕上げたということも含めて様々な意味がこめられているのでしょうね。 岸:画廊に所属しないで貧乏をしていたときでもクートラスは,毎日のように風景や、人々を描くために街にでかけましたし、朝早く起きて、日のあるうちは、風景画、静物画等の制作のために立ちっぱなしで仕事をしていました。「僕の学校は、街と、それから美しいものに対する愛」と言っているほど街が大好きでした。そして日が沈んで夜になって漸く椅子に腰掛け、いわば余暇として自分に許されたと思っていた時間帯に描き始めたのがカルトだったのです。 この昼と夜との二重生活をヴェルセル画廊を1972年に辞めるまで続けました。ですからカルトを「僕の夜」と呼ぶようになったのだと思いますし、こうした夜に自分の中の深い『闇』と向いあったので、「夜」という言葉にはいろいろな意味があるのだと思います。クートラスはカルト、グアッシュ等、67年以降の作品のことを、「僕の夜の結晶」、「凄い孤独と不安の中で仕事をし続けた数えきれないほどの夜の賜物」とも言っています。 ― カルトだけの作品集『僕の夜』に続いて、エクリから2015年2月にグワッシュの作品だけを集めた『僕のご先祖さま』を刊行する予定です。 岸:1977年から制作を始めた一連の、人間や動物のグアッシュで描いた肖像画をクートラスが時々ふざけて「僕のご先祖さま“Mes Ancêtres”」と呼んだりしていましたので、私もそう呼び続けています。もちろん彼の実際の先祖というわけでありません。クートラスは労働者として,11歳から工場で働きましたし、父親が誰かも分りませんでしたから彼の実際のご先祖さまは謎に包まれています。 ― 懐かしくユーモラスで悲しげな人々の肖像は、いつでも親密な雰囲気がかもされていて離れがたくなってしまいます。 岸:寂しがりで、お喋り好きのクートラスは、若い時から蚤の市や、ビストロで、人々をよく観察してデッサンしていました。電車の中で見かけた或る若い女性の額の形がルネッサンス風だからと、声をかけて付き合ったこともあったそうです。そんな風に日常の中で、カテドラルの彫刻で見た顔や、お城のポートレートギャラリーで見つけた顔と出会い、動物や鳥の目に,自分の親しい人の面影を見ることもあったりして(グアッシュの人物は鳥の目をしていることが多いです)、それが内面化されて、一連の肖像画になったのだと思います。グアッシュの制作も殆ど夜でした。また、ネズミと暮らしたことがあるぐらい、動物好きでしたから、動物たちにも自分と縁の深い存在に対する感情を重ねることがあったと思います。 岸:先祖、過去の人というより、自分という小さな存在をつくっている大勢の人達の肖像なのかもしれません。不幸な子供時代を送ったクートラスは自分の生きた労働者という環境に対して憎しみに近い感情もあったと思いますが、彼を救ったのは、民衆芸術の愛に溢れた作品でした。カルトやグアッシュの世界にはある意味では、自分の運命との和解のようなところがあるかもしれません。 グアッシュもフランス人は装飾的にも取れる華やかな作品を好む傾向があるかもしれません。クートラス自身の性格にも火のような激しさと、水のような静かさとがせめぎあっていました。「あの青や赤の星がきらめく花火と地べたに不発で残ってしまった爆竹」という風にも自分で言っていました。日本では、むしろ、水のようなクートラスの側面に惹かれる方が多いような気もしますが、未だ良く分かりません。 今回、初めて日本ではグアッシュの画集を出版して頂く事になりました.日本の皆様の反響を楽しみしております。 岸真理子・モリア 1977年渡仏。パリにある日本の画廊で働きながら、若い頃、現代のユトリロと評されたことのあるロベール・クートラスと出会い、晩年をともに過ごす。1985年に亡くなったクートラスの遺言により、カルト(手札大の紙片に描かれた絵画)のほか、テラコッタ、グアッシュなど、作品を所有、管理することとなった。 2011年、クートラスの生涯を綴った『クートラスの思い出』(リトルモア)を刊行。現在、ピアニストの夫とともに、パリ郊外に住んでいる。 写真:平地勲